「すみません、もう出ます……」赤いカーディガンのクロエ・ベネットは、生後7か月のルークを抱え、そっと席を立った。運ばれたばかりのざるそばは、まだ一口も手をつけていない。赤ちゃんが泣いたら店を出る。それが彼女の中で、母親としての礼儀だった。しかし、厨房の奥から現れた白髪の店主は、怒ることなく、短く何かを告げた。意味は分からない。けれど、女将が翻訳アプリで示した言葉は、クロエの胸を強く打った。 「私たちは待てます。赤ちゃんは待てません。だから、こちらが待つのです」女将は奥の畳席へ案内し、ルークを寝かせる場所まで整えた。やがて泣き声は静まり、クロエは冷えた蕎麦を口に運ぶ。だが、店主が黙って最初のそばを一人で食べ直していた事実を知った瞬間、彼女の涙は止まらなくなった。その日から彼女は、もう「すみません」ではなく「ありがとう」と言うようになった。