「返事をしない人だった」と、私は三十六年ずっと思っていた。台所から「お茶入りましたよ」と呼んでも、新聞から顔を上げない。雨の話をしても、ただ黙っている。そんな夫と別れて三年。もう他人になったはずの元夫を、孫そうたの運動会で見つけた時、胸がざわついた。白くなった髪、少し痩せた背中。その耳の後ろに、肌色の小さな補聴器があった。市役所勤めを終えた彼は、定年後しだいに耳が遠くなっていたという。返事をしなかったのではない。聞こえないことを、恥ずかしさで隠していただけだった。午後のリレーで私は思わず叫んだ。「そうだ、頑張れ!」その瞬間、元夫が振り向き、補聴器にそっと触れた。やがて四人で校門へ向かう途中、彼は静かに言った。「今日はよく聞こえた。お前の声だった」ベンチで渡した温かいお茶。彼は初めて、はっきり返事をした。「ああ、ありがとう」三十六年越しの言葉だった。