「みんなが、お前とは別れた方がいいって言っている」69歳の夫は、そう言って笑いました。しかし、妻の悦子には、その“みんな”が誰なのか分かりませんでした。顔も名前も知らない、会ったこともない人たち。それでも夫は、40年以上寄り添ってきた妻の言葉より、スマートフォンの向こう側にいる誰かの言葉を信じるようになっていたのです。定年後、夫はSNSで知り合った女性に夢中になりました。「君だけは俺を理解してくれる」そう語り、退職金や老後資金まで使い始め、ついには離婚まで口にするようになります。妻が体を心配して病院を勧めても、夫にはただの小言にしか聞こえませんでした。一方、SNSの女性は優しい言葉ばかりを投げかけます。褒めて、認めて、夫の孤独を埋めるように見せかけていました。しかし、その優しさには大きな秘密が隠されていたのです。ある日、夫は花束を抱えてホテルへ向かいました。ついに女性と会える――そう信じていたのです。しかし、待ち合わせ時間を過ぎても相手は現れません。連絡も取れず、SNSのアカウントも消えていました。そこで初めて夫は気づきます。自分が信じていた“皆”は、最初から存在しなかったのだと。さらに三週間後、夫は突然脳梗塞で倒れます。病室でスマートフォンを握りしめても、以前のような励ましのメッセージは届きません。「みんなどこへ行ったんだ……」弱々しく呟く夫の前に残ったのは、誰よりも傷つけたはずの妻でした。