2014年、東京の病室で、一人の男が絶望の中にいた。喉のがんを患い、放射線治療によって声を失いかけた男――それは「フォークの帝王」と呼ばれた吉田拓郎だった。「もう歌えなくなるかもしれない」そう漏らす夫の隣で、森下愛子は黙々と料理を刻んでいた。喉の痛みで食事さえ困難になった拓郎のため、一口でも飲み込みやすいように細かくする。そして何度も同じ言葉を伝えた。「必ず治るから」二人の関係は、1983年の大きな騒動から始まった。当時、森下愛子は25歳の女優。吉田拓郎との関係は世間から厳しい視線を向けられ、「略奪婚」とまで呼ばれた。しかし、時が流れるにつれ、その結婚の本当の姿は変わっていった。1986年に結婚した二人は、決して平坦な道を歩んできたわけではない。森下は世間の批判や精神的な苦しみに耐え、やがて女優としての活動を減らしていった。一方、拓郎は肺がん、そして咽頭がんという大きな試練に直面した。肺の一部を失った時も、声を失う恐怖と戦った時も、森下は夫のそばにいた。表舞台で輝く夫を支え続け、静かに人生を共に歩んだ。そして2026年、80歳を迎える吉田拓郎は再びステージへ戻る決意をした。その理由は、失われた栄光を取り戻すためではない。二度のがんを乗り越え、再び歌えるまで支えてくれた妻・森下愛子へ、感謝の歌を届けるためだった。かつて世間から批判された二人の結婚は、40年という歳月を経て「支え合う夫婦の物語」へと変わった。ステージに立つ80歳の男。その客席には、長い年月を共に乗り越えてきた一人の女性がいる。