東北新幹線のルート選定が地域を大きく分けた時代、覚えていますか?盛岡から新青森までのルート決定を巡り、東回りか西回りかで地元が真っ二つに割れた激しい誘致戦が繰り広げられました。東回りルートは八戸を経由し、下北半島の開発計画に繋がるアクセスを売りにしており、一方、西回りルートは弘前から大館を経由し、観光促進や地震の少ない地理的優位性をアピールしていました。どちらもそれぞれの地域の未来を賭けた壮絶な選択でした。決断を下したのは当時の総理大臣・田中角栄氏。彼の「すべての新幹線をまとめて建設する」という大胆な発言は人々の期待を集めましたが、実際には経済の低迷や財政問題により計画が度々遅れ、最終的に2002年に全面開業まで辿り着いたのです。