かつて13万人以上が訪れた和歌山県椿温泉の温泉街。その華やかな時代を覚えている人々も多いだろう。江戸時代から続く歴史あるこの地は、明治以降、観光地として繁栄を極めた。しかし、バブル崩壊や阪神淡路大震災、さらには時代の流れとともに、かつて並び立つ20以上の旅館のうち、営業を続ける宿は今や一軒のみ。その姿は、まるで過ぎ去った時代の影を抱えるようにして佇んでいる。 筆者が訪れたのは、その唯一の宿「椿荘」。外観には老朽化の痕跡があるが、木々と共存するようなその佇まいには、どこか哀愁が漂う。宿に入ると、当時の華かさを今も物語る調度品や装飾に触れ、心が引き締まる思いがした。宿泊中、海風の音が心地よく響く中、静寂の中で温泉につかる時間は、忘却の美を味わう瞬間となった。この地には、過去の賑わいとともに、切ないまでの「わび・さび」の美しさが滲む。それはまさに、日本が持つ独特の感性を象徴するものといえよう。