日本のF1カレンダーから忘れ去られたサーキットの物語は、日本モータースポーツ史における重要な章を成している。まず、岡山国際サーキット—山々を切り拓き誕生したこのサーキットは、低速コーナーが多く、車好きには魅力的なコースだが、F1にとっては規模が小さいと評価された。その結果、パシフィックグランプリが1994年と1995年の僅か2回のみ開催され、一時的に歴史に刻まれることとなる。片山右京選手や伝説的なアイルトン・セナがこの地を駆け抜けたが、その後スケジュールから静かに消え去った。そして、富士スピードウェイ。1976年、この有名なサーキットで行われたのはニキ・ラウダとジェームズ・ハントの激闘だった。ラウダの安全を優先した棄権によるドラマと、ハントの劇的なチャンピオン獲得が展開された。しかし、その後、安全問題が表面化し、1983年の大事故による批判の嵐で、F1は富士を三十年近く遠ざけた。遥か後年、トヨタによる全面支援で復活を果たした富士スピードウェイでは、ルイス・ハミルトンとキミ・ライコネンが競い合い頂点を目指した。しかし、リーマンショックによる金融危機でトヨタは撤退。この瞬間、富士スピードウェイのF1への道は閉ざされ、歴史の幕が静かに下ろされた。いかに名声を誇るサーキットであろうとも、F1を招き続けることがいかに困難であるかを痛感させられる物語である。